カルチャーの進化
圧倒的な成果で最強の居場所を創る。
数字しか見ていなかったリーダーが、人に向き合い組織を立て直すまで。CARTA ZERO 執行役員・村上悠の挑戦。

海外企業の日本進出支援という領域をゼロから築き、事業を大きく伸ばしてきた村上。ひたすら数字を追い求めた先に待っていたのは、チームから次々と人が離れていくという苦しい経験でした。
数字に固執し、一度は組織を壊してしまったリーダーが、なぜ今「最強の居場所」を掲げるのか。そして、なぜその居場所を「圧倒的な成果」で守り抜こうとするのか。相反する二つの哲学を両立させる、その思考の源泉に迫ります。
村上 悠
Yu Murakami
株式会社CARTA ZERO 執行役員
第3営業局 局長
ラベルさえあれば、無敵だと思っていた
―これまでの経歴について教えてください。どのような学生時代を過ごされていましたか。
子どものころから学級委員長や生徒会、キャプテンなど、多くのリーダー役を務めてきました。大学時代も留学やインターンの掛け持ち、自らビジネスへ挑戦するなど、当時SNSでも流行っていたいわゆる「意識高い大学生」だったと思います(笑)。
振り返ると、やってきたことに一貫して「他者から認められたい」という思いがありました。周囲に認めてもらえる立場、肩書き。そういうわかりやすいラベルが、とにかく欲しかったんだと思います。
―その後新卒でVOYAGE GROUP(現 CARTA HOLDINGS)へ入社します。
「ビジネスを起こす力を身につけたい」と考え、インターンから事業が生まれたり、社内コンテストから子会社ができたりする事業開発会社に憧れて入社を決めました。
内定者懇親会で一緒になった同期たちがとにかく優秀で、この人たちと一緒に成長していきたいと思えたのも入社の理由の一つでした。しかし、3年目が終わる頃になっても、自分は営業の端くれのままでした。会社は上場を経て大きくなっていくのに、市場どころかまだ数百人しかいない社内でも目立つ活躍ができていなかったんです。
それまでは、学生時代に積み上げたラベルが、そのまま自分の優秀さだと思っていました。しかし、社会に出たらそのラベルなんて何ひとつ中身を保証してくれないことに気づかされました。僕がくすぶっている間に多くの同期が出世し、早い人はすでに子会社の役員に抜擢されていました。役職も報酬も、リスペクトしている相手が先に手にしていく。同期の活躍を見るたびに卑屈になっていました。

唯一の武器に賭けた。達成率7%から始めた事業立ち上げ
―そこから、今の第3営業局につながる海外事業を立ち上げられたんですよね。
はい。このままでは社内で埋もれてしまう。その危機感から新しい挑戦を探すようになりました。自分の相対的な強みは多少の英語力くらい。でもそれに賭けるしかないと思ったんです。
ちょうどその頃、会社が海外事業から撤退してその領域が空いており、当時の上長に海外事業を立ち上げたいと直談判しました。
正直に言えば、出世したいという気持ちも強くありました。同期に差をつけたい、人と同じことをやっていてもだめだ、と。
事業立案書を何度も書き直して、なんとか小規模でチャレンジさせてもらえることになりました。
―立ち上げ当初は、どんな日々でしたか。
1年ほど厳しい状況が続きました。そもそも僕自身に有力なコネクションがあるわけでもない。唯一の武器である英語だってネイティブではない。頻繁に海外へ出張し営業に回る日々でした。
例えば、韓国にはコーヒーブレイクの文化があって皆さん会社の名札を首から下げたままカフェにいるんです。お目当ての会社の人を見つけたら「日本から来ました。少しお時間いただけないでしょうか」と声をかけていく。たまに優しい方が「会社においでよ」と言ってくれて、そうやって少しずつ繋がりを増やしていきました。
それでも、うまくいかないことのほうが多かったです。
苦戦は数字にも顕著に現れ、営業目標達成率が7%という月もありました。ある程度大きなメーカーと商談できたときも、始まって10秒で「あなたの英語力では、これ以上話せることはない」と言われて終わってしまう。そんなことの連続でした。
―当時、何が村上さんを駆り立てていたんですか。
無能だと思われたくない。同期に負けたくない。僕を突き動かしていたのは、その二つでした。
とにかくがむしゃらにできることを全部やっていました。もう一度やれと言われても、たぶん無理ですね(笑)。
室長というラベルをもらってようやく掴んだチャンスなので、ここで結果を出すしかない。落ち込んでいる余裕なんてなかったんです。
―そこから、少しずつ事業は伸びていきます。
はい。といっても、劇的なブレイクスルーがあったわけではありません。韓国での飛び込みのような地道な営業を積み重ねて、それがようやく実を結び始めたという感覚でした。
なかでも大きかったのが、「トゥーンブラスト」というゲームアプリです。日本市場のマーケティングをまるごと任せてもらい、月間10万人に満たなかったユーザーを300万人超まで伸ばすことができました。その年、日本で最もインストールされたスマホゲームとして表彰されるまでになったんです。
一つ結果が出ると、次の相談が来る。ゲームだけでなく、美容や旅行といった業種にも広がり、事業規模もどんどん大きくなっていきました。
そこにコロナ禍の巣ごもり需要が後押しとなり、海外コンテンツの広告が一気に伸びました。働けば儲かるくらいのボーナスステージでした。

華々しい成長のその裏で
―しかし、その好調の裏で組織はほころびはじめていました。
5名いる正社員のうち、4名が同時期に辞めました。
事業は急拡大する一方で、人手は増えない。そんな状況に全員が限界まで疲弊していた。なのに僕はそれに全く気付いていませんでした。数字は伸びていて、社内でも表彰され、うまくいっていると本気で思っていたんです。
当時の僕は、目の前の数字を出すことしか考えていませんでした。そもそも、マネジメントという発想がなかったんです。一人ひとりが何を抱えているか、どんな状態なのか。そこにまで目が向いていませんでした。あの頃のメンバーには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
―そこからどのように立て直していったのでしょうか。
特別なことはしていません。マネジメントの基礎の基礎から勉強しました。それこそ「理想の上司とは」のようなマネジメント初級本も読み漁りました。
まず取り組んだのは、メンバーと話す時間を増やすことです。
GoogleカレンダーのAPI(外部システムと連携する仕組み)を使って、自分が一人ひとりにどれくらい時間を割けているかを可視化しました。
そこからは地道なことの積み重ねです。外国籍の社員も多いので、回りくどい表現や枕詞をなくして、ストレートに伝えられるように話し方も変えました。感情も大げさなくらい表現する。お互いをファーストネームやニックネームで呼び合い、誕生日には必ずお祝いします。そうやって少しずつメンバーとの距離も近くなっていき、彼らが何を考え、何に悩み、どうなっていきたいのかがわかるようになったんです。
「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、同じ時間を過ごせば過ごすほど、やっぱり愛情は強くなるんですよね。数多くの選択肢がある中でCARTAを選んでくれた、時には海を越えて来てくれた、そういったメンバーが自信をもって輝ける場所を創っていきたいと思うようになりました。

居場所を守り続けるために、成果で黙らせる
―第3営業局には「最強の居場所を創る(Build the Best “Home”)」という行動指針がありますね。
はい。人生で多くの時間を過ごす会社を、一人ひとりにとって心地いい場所にしたい。損得を超えて信頼し合える仲間と、その居場所を自分たちの手で作っていく。そんな想いを込めた言葉です。
もっとも、それは甘さとは違います。だからこそ、もう一つ「成果で黙らせる(Results Matter)」という行動指針も掲げており、この二つはセットです。
心地いい居場所は、ぬるさの上には成り立ちません。やりたいようにやらせてもらうには、任せて大丈夫だと思ってもらえるだけの信頼がいる。その信頼は結果でしか作れないんです。守りたい場所があるからこそ、誰よりも成果にこだわり抜きます。
―成果を出すために大事にしていることはありますか。
当たり前に見えることですが、いいと思ったことは常識にとらわれずまずやってみることです。組織がある程度大きくなった今でも、海外への飛び込み営業は続けています。そこでアポイントがとれなければ、手紙を出してみよう。いっそ和紙にすれば、目に留まるんじゃないか。そういう会話や行動が日常的に起きています。
とはいえ、行き当たりばったりでやっているわけではありません。日系の企業が海外で勝つには何が必要か、それぞれが自分の頭で考え、動いてきました。その積み重ねが、少しずつ形になっています。いまでは、海外企業が日本に進出するとき、相談先に名前が挙がる。そう言えるところまで来たと思っています。
―最後に、村上さんが今後生み出したい「進化」について教えてください。
まずは、海外企業の日本進出支援という領域で確固たる地位を築き上げることです。
外資系の巨大エージェンシーもひしめく中で、日系の企業が海外クライアントから選ばれ勝ち続けるのは、簡単なことではありません。だからこそ、挑む価値があると思っています。
その先の目標として、支援できる範囲を東アジア全体へと広げていきたいと考えています。海外企業が日本に進出する際はもちろん、韓国や台湾を目指すときも、一貫して支援できる体制を整えていく。
この領域を切り拓くのは、僕たちだ。そう信じて、進んでいきます。



